今回の選挙、与党の圧勝で「暗黒の時代」に突入か?
…という論調がネット界隈を駆け巡っている。しかしそれは・・・
甘い!!!
暗黒の時代は「これからやって来る」のではなく、もうすでに「来てしまっている」のだ。
今回の選挙で与党が圧勝しようが辛勝しようが、状況はいささかも変化しない。
民意は「安倍にNO!」だと言うが、暗黒の時代にあって「民意」など何の役にも立たない。
権力は民意を完全に無視して暴走しているのである。
もはや民主主義が機能していないのだから、選挙に期待するのはチト呑気としか言いようがない。
清き一票で政治を変えられるなどという段階は、何年も前に過ぎ去ってしまったのだ。
いつか来た道を思い起こしてみよう。
独裁政治、弾圧政治は国民の圧倒的かつ積極的な支持によって強化される。
1930年代のドイツや日本がそうであったように、
反権力の闘争をする人間は「非国民」となり、民衆から糾弾される。
その闘争が民衆の熱狂的支持を得ると考えている者は、民衆の支持を得られないと知ったとき、
戦線を離脱し、弾圧側に寝返るだろう。
そう、我々の闘いは孤立無援であり「闘争」というより「抵抗」と言うのがふさわしい。
心ある政治家は永田町から次々に追放され、心ある市民は官憲の弾圧に押しつぶされる。
そして「それが当然」のように見える心理のバイアスが、大多数の国民に植え付けられている。
現時点で、いまだ日本の民主主義が機能していると思っている人々は、
今後どれほど独裁、弾圧が進もうと「日本は民主主義国家だ」という幻想から抜けられないのである。
人々は暗黒の時代に目が慣れて、「まだ見えている」と錯覚し続ける。
民衆が目覚めることに甘い期待を抱いていれば、いつか自分も目覚めぬ民衆の仲間入りだろう。
現状が絶望的であると自覚する者だけが闘いを…いや抵抗を続けられる。
それは非常に少ない集団による、非常に小規模な抵抗だろう。
世間的にそれは「犯罪者」であり、法も民意も我々を守ってはくれない。
秘密保護法や共謀罪など、弾圧のための法整備が進むと、
最初は「悪法阻止」と言っていた人々でさえ、やがて「悪法も法なり」と追認するようになる。
だが、そんな変節を批難したところで何の役にも立たない。
それこそが民衆であり、彼らの意志が「正義」の在処を決定する。
これに歯向かう者は「非国民」であり「犯罪者」だ。
あえてその立場に身を置く覚悟を持つ者が、このブログをご覧の読者のうち、はたして何パーセント居るだろうか?
非常に楽観的に見積もっても、せいぜいが1%というところだろう。
「1%vs99%」という図式の中で、我々は「99%」の側に居ると思って来た人は多いと思うが、実は全く逆なのだ。
我々は「1%の闘い」の中に居る。
この認識を持っていることが実に重要だ。
「民衆決起」などという幻想を捨て、批難轟々の嵐に信念を持って論駁し続ける「勇気」と、
決してヤケにならず、暴力的な手段に訴えることのない「忍耐」は、一重にマイノリティの誇りより産まれるのであり、
マジョリティの奢りからは、それと真逆の「迎合」と「不寛容」しか産まれない。
もちろん「目覚めた人々」を増やす努力は怠るべきじゃないが、その方向に光は見えない。
見えないことを自覚しつつ、自らの心に宿る「マジョリティの奢り」と闘い続ける気概を持たなければならないのだ。
長く苦しい闘い…いや抵抗はこれから一生続くだろう。
だが、その苦しさこそ人生の喜びであり、これを克服する努力こそが「生きる」と言う事の意味なのだろうと思う。
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