討論Bar“シチズン”マスターの西岡が、政治、司法、時事等に関する辛口コメントを書き綴ります
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CNM市民ネットメディアグループで「統一TV局」設立の準備が始まった。
全国のブロガーさん達が制作するコンテンツを集めて編成し、1日中放送しているTVチャンネルにしようというもの。
壮大な企画だが、それゆえに苦労も多い。
CNMのメンバーは、それぞれに個性的で構想力旺盛な面々が連なる。
大まかな構想が机上に乗ると、それぞれが色んな具体的プランを次々に考え出し、それを勝手に進めるもんだから、なかなか組織的な動きにならない。
オブザーバーの安部芳裕さんが感想を聞かれて「前途多難ですなー」とおっしゃったように、これから先もゴタゴタは続くだろうと覚悟している。
とはいえ、そこがCNMの良いところでもある。
「思い立ったら吉日」で、どんどん実験的なプランが実行されていくうちに、いつしか「落ち着くところに落ち着く」状況が生まれる。
旧来の「提案→検討→議決→実行」という「合意形成手続き」にこだわっていると、成るものも成らなくなって、そのうち立ち消えになってしまうだろう。
私もCNMの名前を使って、自分流のプランを他のメンバーの同意なしで勝手に実行している。
成功すれば良しで、それを真似る人が沢山出てくるだろうし、失敗しても自分が後始末をするのだから、誰に遠慮することもない。
一枚の大きなキャンバスに、複数の画家が自分勝手な流儀で描き進み、最終的にアンバランスながら大作が完成する…といった手法だ。
ちなみに私は地域性に拘った活動組織作りを、地元の大阪で始めようと思う。
具体的には、複数のレギュラーコメンテーターを擁した「時事バラエティ番組」(テレ朝の「モーニング・バード」みたいなやつ)を定期的に制作するプロダクションの設立だ。
すでにコメンテーターのアタリは付けていて、現在随時打診中である。
あとはスタッフの編成だが、これは「市民運動」的な形態が良いと思っている。
広く企画者を募った企画会議を定期的に開催し、良いと思った企画を自分たちの手で番組化していくのだ。
もし費用がかかるような企画だったら、賛同者の皆で出し合えばよい。
30数年前、ホームビデオを使った「自分たちのTV局」構想に参加した時の記憶が今よみがえる。
また20年間、映像制作を仕事としてきた私にとって、培ってきたスキルの発揮どころでもあろう。
大阪府もしくは、近郊にお住まいの方、あるいは定期的に大阪まで出向ける方で、興味ある方は是非ともこのプロダクションに参加して頂きたい。
もちろん参加費用は無料だ。
企画会議は討論Bar“シチズン”でやるので、その時のドリンク代のみお支払い頂ければ、こちらも営業になってメリットがある。
そして先に書いたように、番組作りで費用がかかるようなら、企画に賛同するメンバーだけで出し合う…という方式にしたい。
もっとも、上は「決定事項」ではない。
集まったメンバーの皆さんの意見を聞いて、プランの微修正は柔軟にしたいと思っている。
連絡先は下記。
お気軽にお問合せ頂きたい。
メール:drsmac1@me.com
携 帯:090-9875-7157
電 話:(06)6537-7672 (討論Bar“シチズン”)
住 所:大阪市浪速区日本橋5丁目14-20
今朝の地方紙に掲載されていた、共同配信の外信記事にマリ紛争のことが書かれていた。
見出しは…
「過激派撃退に歓喜の声」
というもの。
明白な国際法違反である、フランス軍のマリ進行に諸手をあげて賞賛を与える記事である。
そもそも、政府軍が外国軍の手を借りなければ制圧できないような反乱勢力がある場合、それは「反乱勢力」ではなく、国権の「主流派」とみなすべきだろう。
旧宗主国と利権のパイプでつながった政府に対して、民衆が蜂起して軍事的優勢になったから、宗主国が慌てて軍事介入したのに、記事ではまるで狂信的なイスラム教徒がキリスト教勢力に対して暴力的な攻撃をしていたというような書き方が目立つ。
マリはとても遠い国である。
私にはマリ人の友人など一人も居ないし、大統領が何と言う名前なのかすら知らない。
しかし、この共同配信の記事を読んだ読者は「マリって、宗教テロが横行する恐ろしい国なんだなぁ」と思ってしまうだろう。
そして、そうした人々は、かの国の事情を知っているとの錯覚に陥ってしまう。
思い起こせば10年前、イラクのフセイン政権に関するネガティブキャンペーンが華やかなりし頃、多くの人が(そう、イラクが何処にあるのかも知らない人までが)「フセインは独裁者で民衆は皆、悪政に苦しめられている」と思い込んでいた。
しかし、日本アラブ友好協会の青山貞一氏は、一般の人々よりイラク通であり、かの国の文化や歴史、風土に詳しい人物である。
ゆえにフセイン政権への評価もその当時から中立的な論調を貫いていたのだ。
遠い国で起こっている紛争について、私たちはあまり強い関心を抱かない。
それならば、新聞だって「ベタ記事」で事実関係のみを報道すれば良いのに、やたら扇情的な見出しで、一方の見方からだけ見た偏向記事を写真入りでデカデカと載せている。
これは、無関心の隙間に偏見を植え付けるマインドコントロールなのだ。
それに対抗するために私たちは、より強い関心を持って遠国の事態を冷静に見つめ、情報収集しなければならないのが本来だ。
だが、ほとんどの人は新聞やテレビによって植え付けられた偏見を自ら検証せず「よくは知らないけど…」の接頭語を付けて、分かったような珍解説を近しい人に伝授している。
これが実に「やっかい」なのである。
「情報の遠近感」を狂わされた人々は、近しい人からの誤った解説をマスメディアで追認識し「正しい情報」だと錯覚してしまう。
そして、「それは偏見で、勉強不足ですよ」などと進言すれば、感情的に「知識人ぶるんじゃねえ!」と叱られるのだ。
このことは、マリの紛争やイラク戦争だけの話ではない。
扇情的な見出しで報道しておきながら詳報は載せず、論争になりそうだとブラックアウト(自然消滅)するような事件報道は、例外なく情報操作であり、さもなければ「売らんが」ための権力迎合報道でしかない(その典型的な例が「陸山会事件」の報道だ)。
だいたい、大手メディアは「冤罪」に関する記事を極力避ける。
なぜなら、読者が自ら偏見を検証するような材料を与えたくないからだ。
結果的に国民の考える力を削ぐ所業を、際限なく繰り返すマスメディアは、民意の低下と国力の衰退を願う「売国奴」である。
マスメディアの不買運動、抗議、さらには代替メディアの開発模索…私たちが決意を持ってやるべきことはヤマほどある。
CNMネットメディアグループの、今後の活動にぜひともご注目頂きたい。
早いもので今年も183分の1が過ぎた(笑)。
私のブログは、だいたい「三日坊主」なので、明日以降も更新される可能性は極めて低いのだが、近頃は「言いたいこと」がヤマほどある。だから時間がとれる限り書き続けようと思う。
正月は仕事の事を忘れて、のんびり家で過ごそうと決めていたが、世情は風雲急を告げている。
焦る必要はないが、かと言ってのんびりしている暇もなさそうだ。
さてさて、やるべき事は一杯あるのだが、いまいち優先順位をつけかねている…というのが現状だ。
そこで「自分が一番やりたい事は何か?」を改めて考えてみた。
すると、やっぱり「メディア革命」というテーマがイの一番に浮かび上がってくる。
思えば30数年前、「自分たちのTV局を作るんだ」と立ち上げた市民プロジェクトが原点にある。
ホームビデオが出始めたころで、まだインターネットなど影も形もなかった時代だ。
あのころも私たちの問題意識は「マスメディアの堕落」であった。
結局、ホームビデオという新しいテクノロジーでメディアシーンを変える…という試みは、わずか1年あまりで頓挫したのだが、それから十数年を経る、インターネットの出現は、まさに新時代の希望であったといえる。
インターネットが普及しはじめた1995年ごろから、私はそのポテンシャルに注目していた。
公開掲示板でのサイバー討論には、片っ端から参加して荒らしまくったことも、今は懐かしい思い出だ。
そして今、ブログやツイッターという新しい発信形態には、なかなか馴染めないのだが、段々とその特性が理解できるようになってきた。
私のような「理屈人間」がインターネット・メディアを有効に使うために必要なことは、まずその特性を知ることなのだ。
私はインターネット・メディアを「分散型メディア」と位置づける。
「不定形増殖型メディア」と呼んでもいい。
このメディアの特徴は、発信元が一定でない…ということに尽きる。
マスメディアが「集中型メディア」であるのに対して、インターネット・メディアは、発信元が無数に存在する。
この特殊な構造がメディアシーンを変えるキモなのだ。
発信元が少数に制限されている場合、受信者は発信者の「信頼度」でチャンネルをチョイスする。
そうすると、自然に「より大規模な」発信者に信頼が集まり、マス化が始まる。
情報源のヒエラルキーが作られていくのだ。
だいたい日本人は、このヒエラルキーが大好きだ。
だから、子供は親の言うことより先生の言うことを聞き、先生の言うことより校長先生の言うことが正しいと考える。
さらに、校長先生より教育委員長が正しく、教育委員長より文部大臣、文部大臣より総理大臣の方が正しいと、無意識のうちに刷り込まれている。
インターネット・メディアは、この「情報信頼度のヒエラルキー」を粉砕する画期的なツールだと考える。
ミニコミやビラよりスポーツ新聞を信用し、スポーツ新聞より地方紙を、地方紙より全国紙を信用してきた日本人だが、インターネット・メディアは「信頼性」が横並びだから、信頼性でチョイスすることは出来ない。
だから「玉石混合」などと言われるのだが、何が玉で何が石かは、常に情報の受信者が判断しなければならないのだ。
そうすると、どういうことが起こるか?
受信者は情報源を「信頼度」で選ぶのではなく、「親近度」で選ぶようになる。
オピニオン記事などは特にそれが顕著となり、自分と考え方の近い発信者を好んでチョイスするようになるのだ。
「それでは真に正しい情報が広く伝わらず、コンセンサスが分断されて、民度が低下するのでは…?」と憂う人も居るだろう。
しかし、そういう考え方こそが「マスコミ」神話を支えてきた根源なのだ。
「マス化」された「信頼度の高い」情報源は、常に絶対正しいとは言えないし、人間が生活していく上で広範なコンセンサスは必ずしも必要じゃない。
限られた空間の中だけで「正しさ」のコンセンサスが得られるなら、その方がずっと人生は豊かになるだろう。
より広範なコンセンサスは、それが必要になった時だけ模索すれば良いのだ。
要するに、人は自分が心地よいと感じる情報空間を選択する権利があり、科学的、合理的な「真実」は時として、そういう空間の阻害要因となる。
どこかの偉い人が決めた「正義」に従うのではなく、自分たちのコミュニティ内だけで通用する「正義」を規律とした方が、その中で生活する人間は、ずっと住み易くなるのだ。
子供達は、まず自分が考える「正しいこと」を優先させ、親の言うこと、先生の言うこと、校長の言うこと、教育委員長の言うこと、文部大臣の言うこと、総理大臣の言うことは、前から順に優先順位を高くしていけば良い。
つまり意思伝達の方向が「上から下」ではなく「下から上」あるいは「個人から集団」に変化するのだ。
なんと言っても個人にとって、自分と近しい者から順に優先度が高くなる…それが一番自然なことなのだから。
これは「社会が個人を規制する」から「個人が社会を規制する」への逆転発想である。
インターネット・メディアは、メディアの「信頼性」そのものを無意味なものにするがゆえに、個人の意見、個人の感性が優先され、多様な考え方が共存し、それらが相互に尊重されるメディアシーンを形成する。
まさにそれこそ「自立と共存」の理念であり、「グローバリズムからローカリズム」の実践でもある。
さらには「国家権力優位から地方および個人の優位へ」とも言えるのだ。
以上、インターネット・メディアの特性を踏まえた上で、私の「メディア革命」は具体的な戦略を展開していくことになる。
読者の皆様も、様々なご意見、アイデア、独自の戦略をお示し頂ければ、非常に有り難く思う。
さて、正月休みはあと一日。
思考のエンジンがフル回転したままでは休養にならないので、そろそろ一旦、思考停止の時間にする。
明日また、エンジンがかかったら更新するかも知れないが、まあ、あまり期待せずにお待ち頂きたい。
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