討論Bar“シチズン”マスターの西岡が、政治、司法、時事等に関する辛口コメントを書き綴ります
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今朝の地方紙に掲載されていた、共同配信の外信記事にマリ紛争のことが書かれていた。
見出しは…
「過激派撃退に歓喜の声」
というもの。
明白な国際法違反である、フランス軍のマリ進行に諸手をあげて賞賛を与える記事である。
そもそも、政府軍が外国軍の手を借りなければ制圧できないような反乱勢力がある場合、それは「反乱勢力」ではなく、国権の「主流派」とみなすべきだろう。
旧宗主国と利権のパイプでつながった政府に対して、民衆が蜂起して軍事的優勢になったから、宗主国が慌てて軍事介入したのに、記事ではまるで狂信的なイスラム教徒がキリスト教勢力に対して暴力的な攻撃をしていたというような書き方が目立つ。
マリはとても遠い国である。
私にはマリ人の友人など一人も居ないし、大統領が何と言う名前なのかすら知らない。
しかし、この共同配信の記事を読んだ読者は「マリって、宗教テロが横行する恐ろしい国なんだなぁ」と思ってしまうだろう。
そして、そうした人々は、かの国の事情を知っているとの錯覚に陥ってしまう。
思い起こせば10年前、イラクのフセイン政権に関するネガティブキャンペーンが華やかなりし頃、多くの人が(そう、イラクが何処にあるのかも知らない人までが)「フセインは独裁者で民衆は皆、悪政に苦しめられている」と思い込んでいた。
しかし、日本アラブ友好協会の青山貞一氏は、一般の人々よりイラク通であり、かの国の文化や歴史、風土に詳しい人物である。
ゆえにフセイン政権への評価もその当時から中立的な論調を貫いていたのだ。
遠い国で起こっている紛争について、私たちはあまり強い関心を抱かない。
それならば、新聞だって「ベタ記事」で事実関係のみを報道すれば良いのに、やたら扇情的な見出しで、一方の見方からだけ見た偏向記事を写真入りでデカデカと載せている。
これは、無関心の隙間に偏見を植え付けるマインドコントロールなのだ。
それに対抗するために私たちは、より強い関心を持って遠国の事態を冷静に見つめ、情報収集しなければならないのが本来だ。
だが、ほとんどの人は新聞やテレビによって植え付けられた偏見を自ら検証せず「よくは知らないけど…」の接頭語を付けて、分かったような珍解説を近しい人に伝授している。
これが実に「やっかい」なのである。
「情報の遠近感」を狂わされた人々は、近しい人からの誤った解説をマスメディアで追認識し「正しい情報」だと錯覚してしまう。
そして、「それは偏見で、勉強不足ですよ」などと進言すれば、感情的に「知識人ぶるんじゃねえ!」と叱られるのだ。
このことは、マリの紛争やイラク戦争だけの話ではない。
扇情的な見出しで報道しておきながら詳報は載せず、論争になりそうだとブラックアウト(自然消滅)するような事件報道は、例外なく情報操作であり、さもなければ「売らんが」ための権力迎合報道でしかない(その典型的な例が「陸山会事件」の報道だ)。
だいたい、大手メディアは「冤罪」に関する記事を極力避ける。
なぜなら、読者が自ら偏見を検証するような材料を与えたくないからだ。
結果的に国民の考える力を削ぐ所業を、際限なく繰り返すマスメディアは、民意の低下と国力の衰退を願う「売国奴」である。
マスメディアの不買運動、抗議、さらには代替メディアの開発模索…私たちが決意を持ってやるべきことはヤマほどある。
CNMネットメディアグループの、今後の活動にぜひともご注目頂きたい。
早いもので今年も183分の1が過ぎた(笑)。
私のブログは、だいたい「三日坊主」なので、明日以降も更新される可能性は極めて低いのだが、近頃は「言いたいこと」がヤマほどある。だから時間がとれる限り書き続けようと思う。
正月は仕事の事を忘れて、のんびり家で過ごそうと決めていたが、世情は風雲急を告げている。
焦る必要はないが、かと言ってのんびりしている暇もなさそうだ。
さてさて、やるべき事は一杯あるのだが、いまいち優先順位をつけかねている…というのが現状だ。
そこで「自分が一番やりたい事は何か?」を改めて考えてみた。
すると、やっぱり「メディア革命」というテーマがイの一番に浮かび上がってくる。
思えば30数年前、「自分たちのTV局を作るんだ」と立ち上げた市民プロジェクトが原点にある。
ホームビデオが出始めたころで、まだインターネットなど影も形もなかった時代だ。
あのころも私たちの問題意識は「マスメディアの堕落」であった。
結局、ホームビデオという新しいテクノロジーでメディアシーンを変える…という試みは、わずか1年あまりで頓挫したのだが、それから十数年を経る、インターネットの出現は、まさに新時代の希望であったといえる。
インターネットが普及しはじめた1995年ごろから、私はそのポテンシャルに注目していた。
公開掲示板でのサイバー討論には、片っ端から参加して荒らしまくったことも、今は懐かしい思い出だ。
そして今、ブログやツイッターという新しい発信形態には、なかなか馴染めないのだが、段々とその特性が理解できるようになってきた。
私のような「理屈人間」がインターネット・メディアを有効に使うために必要なことは、まずその特性を知ることなのだ。
私はインターネット・メディアを「分散型メディア」と位置づける。
「不定形増殖型メディア」と呼んでもいい。
このメディアの特徴は、発信元が一定でない…ということに尽きる。
マスメディアが「集中型メディア」であるのに対して、インターネット・メディアは、発信元が無数に存在する。
この特殊な構造がメディアシーンを変えるキモなのだ。
発信元が少数に制限されている場合、受信者は発信者の「信頼度」でチャンネルをチョイスする。
そうすると、自然に「より大規模な」発信者に信頼が集まり、マス化が始まる。
情報源のヒエラルキーが作られていくのだ。
だいたい日本人は、このヒエラルキーが大好きだ。
だから、子供は親の言うことより先生の言うことを聞き、先生の言うことより校長先生の言うことが正しいと考える。
さらに、校長先生より教育委員長が正しく、教育委員長より文部大臣、文部大臣より総理大臣の方が正しいと、無意識のうちに刷り込まれている。
インターネット・メディアは、この「情報信頼度のヒエラルキー」を粉砕する画期的なツールだと考える。
ミニコミやビラよりスポーツ新聞を信用し、スポーツ新聞より地方紙を、地方紙より全国紙を信用してきた日本人だが、インターネット・メディアは「信頼性」が横並びだから、信頼性でチョイスすることは出来ない。
だから「玉石混合」などと言われるのだが、何が玉で何が石かは、常に情報の受信者が判断しなければならないのだ。
そうすると、どういうことが起こるか?
受信者は情報源を「信頼度」で選ぶのではなく、「親近度」で選ぶようになる。
オピニオン記事などは特にそれが顕著となり、自分と考え方の近い発信者を好んでチョイスするようになるのだ。
「それでは真に正しい情報が広く伝わらず、コンセンサスが分断されて、民度が低下するのでは…?」と憂う人も居るだろう。
しかし、そういう考え方こそが「マスコミ」神話を支えてきた根源なのだ。
「マス化」された「信頼度の高い」情報源は、常に絶対正しいとは言えないし、人間が生活していく上で広範なコンセンサスは必ずしも必要じゃない。
限られた空間の中だけで「正しさ」のコンセンサスが得られるなら、その方がずっと人生は豊かになるだろう。
より広範なコンセンサスは、それが必要になった時だけ模索すれば良いのだ。
要するに、人は自分が心地よいと感じる情報空間を選択する権利があり、科学的、合理的な「真実」は時として、そういう空間の阻害要因となる。
どこかの偉い人が決めた「正義」に従うのではなく、自分たちのコミュニティ内だけで通用する「正義」を規律とした方が、その中で生活する人間は、ずっと住み易くなるのだ。
子供達は、まず自分が考える「正しいこと」を優先させ、親の言うこと、先生の言うこと、校長の言うこと、教育委員長の言うこと、文部大臣の言うこと、総理大臣の言うことは、前から順に優先順位を高くしていけば良い。
つまり意思伝達の方向が「上から下」ではなく「下から上」あるいは「個人から集団」に変化するのだ。
なんと言っても個人にとって、自分と近しい者から順に優先度が高くなる…それが一番自然なことなのだから。
これは「社会が個人を規制する」から「個人が社会を規制する」への逆転発想である。
インターネット・メディアは、メディアの「信頼性」そのものを無意味なものにするがゆえに、個人の意見、個人の感性が優先され、多様な考え方が共存し、それらが相互に尊重されるメディアシーンを形成する。
まさにそれこそ「自立と共存」の理念であり、「グローバリズムからローカリズム」の実践でもある。
さらには「国家権力優位から地方および個人の優位へ」とも言えるのだ。
以上、インターネット・メディアの特性を踏まえた上で、私の「メディア革命」は具体的な戦略を展開していくことになる。
読者の皆様も、様々なご意見、アイデア、独自の戦略をお示し頂ければ、非常に有り難く思う。
さて、正月休みはあと一日。
思考のエンジンがフル回転したままでは休養にならないので、そろそろ一旦、思考停止の時間にする。
明日また、エンジンがかかったら更新するかも知れないが、まあ、あまり期待せずにお待ち頂きたい。
謹賀新年
2012年は「市民覚醒元年」だった。
一昨年の311以降、反原発デモが数多く行われたが、最初の頃の印象は「既成の反原発運動家たち」の「いよいよオレたちの出番がやってきたぞ!」と言った高揚感が前に出過ぎているような気がしていた。
しかし昨年は、避難者の母親や子供たちを中心とする「普通の人たち」が街頭に、そして官邸前に繰り出した。
震災の何年も前から原発について勉強してきた、いわゆる「専門家」じゃない人たちは、無智であることを恐れずに行動を起こし、結果「専門家」も舌を巻く知識を身に付けた。
このことを通じて私は、問題意識が芽生えた時、まず最初に必要なことは「知識を身につける」ことではなく「行動に移すこと」である…という事が良くわかった。
私たちの世代(アラ還)は、何かというと「知性」を優先する。
しかし、若い世代は「直感」こそが原動力なのだ。
ただし、その両者は対立するのではなく、双方が双方を補完する関係にある。
旧来の市民運動の傾向として「勉強する者は行動せず、行動する者は勉強せず」というキライがあった。
しかし去年からの傾向は「行動するから勉強する、勉強するから行動する」へ変化したように思う。
これは歴史的な大きな変化だろう。
「生きづらさ」などの「不満や不安」を、紛らわすのではなく、自分の中にしまい込むのでもなく、他者に問いかけて解決の糸口を掴む。
そこから「なんとか出来そうだ」という希望が生れ、その希望が大きな運動へと繋がっていく。
抗議行動と政治運動が、ちょうど「直感」と「知性」の関係同様、連鎖的な繋がりを持って発展して行く。
残念ながら去年は、その運動も成果には結びつかなかったが、確実に萌芽を感じることはできた。
いよいよ今年こそが「勝負の年」になる。
一旦芽生えたものは、そう簡単に根絶やしにならない。
摘まれても踏まれても、雑草は驚異的な生命力で地にはびこるのである。
温室育ちじゃない雑草の運動は、勝利するまでしぶとく継続されるはずだ。
年の始めを迎え、今私はファイト満々である。
頭の中では次から次へと「なんとか出来そう」の戦略が浮かび上がってくる。
もちろん、その戦略のほとんどが「失敗」に終わるだろうと分かってはいるが、諦めずに継続する勇気と根気は身に付いたと実感する。
またぞろ「アベノミクス」自公政権が暴挙を企てているようだが、私たちは焦らないし恐れない。
アンシャン・レジーム(旧体制)が、すでに「死に体」であることを知っているからだ。
敵は虚勢をはって元気な振りをしているが、実はグロッキーでKO寸前なのだ。
彼らのパンチでは、いかに強烈であろうと私たちを倒すことなどできない。
また私たちのパンチの一発一発は弱々しいが、グロッキーになっている相手に着実なダメージを与えることはできる。
第一ラウンド(2012年)はポイントで大差を付けられて劣勢になったが、第二ラウンド以降は「一発逆転KO」を狙うのではなく、確実に1点づつポイントを取り戻すことに全力をあげようと思う。
「市民」という大地に芽生えた雑草は滅びることなく増殖を続けるのだ。
焦ることはない。絶望することもない。
大きな花を咲かせる必要もない。小さく多様な花が大地一面に咲いては枯れを繰り返すのみである。
萌芽から増殖へ、覚醒から活動への年…2013年がいよいよ始まる。さあ、出撃だぁ!
西松系二政治団体の政治家に対する献金は、西松建設本体による「迂回献金」だという批判がある。
これが許されるなら、建設業者が直接政治家個人に寄附することを禁止した、政治資金規正法の意味がなるなる…というのだが、果たしてそうだろうか?
【A】という建設業者と、【B】という政治団体、【C】という政治家の三者が居たとしよう。
【A】は【C】に対して献金する意思を持ち、その金もある。
【B】も【C】に対して献金する意思を持っているが、その金が無い。
法律により【A】から【C】への寄附は禁止されているが、【A】から【B】および【B】から【C】への寄附は合法とされている。
そこで【A】が【B】に対して、【C】へ寄附する金を用立ててやった場合、これを「違法な寄附の抜け道」だと簡単に言えるだろうか?
ここで大切なのは【B】には【C】へ寄附する「意思」を持っている…という部分である。
それこそ、迂回献金を批難する人たちが、すっかり忘れている観点と言って良い。
こうした迂回献金のケースを法律で禁止すれば、【B】が持っている「献金の意思」は切り捨てられるのだ。
もちろん【B】が名前だけで実態の無い団体であった場合や、【A】が【B】の断りなく名義だけを借用した場合は違法であるが、すべての迂回献金がその構図に当てはまるわけではないし、そもそも、そういうケースは「迂回献金」とも呼べない。
逆の言い回しをしよう。
迂回献金で違法性を問う場合、中継ポイントとなった団体、もしくは個人が「存在しない」か「実態が無い」、あるいは「寄附の意思が無い」かのいずれかを証明する必要があるのだ。
西松建設事件で争点になったのは、まさにこの部分である。
「元々の金の出所」は全く関係がないのだが、マスコミは「西松の金が陸山会に渡った」と言う歪曲全開の解釈を流布した。
郷原氏は「寄附の原資は関係なく、寄附行為者の名前が記載されていたなら『虚偽記載』にならない」と解説したが、このロジックを理解できた人は少数だろう。
「迂回献金」という言葉のイメージは悪いのだが、この行為の本質は、政治家個人への直接献金を禁止された建設業者が、その政治家に対して献金する意思を持った人もしくは団体に資金援助する…ということであり、どこにも違法性はない。
もっと言えば、政党支部は所属する政治家に資金供給するが、政治家個人への献金を禁止された建設業者でも、政党への寄附は合法である。
解釈によっては、これを「迂回献金」と呼べないこともないのだ。
幾つかのブログや投稿で、「迂回献金は合法ではあるが、ダーティな方法なので『脱法行為』である」と言う主張を良く目にする。
違法でない行為を批難するときに使われるこの「脱法行為」という言葉は、「なんとなく悪そう」というイメージを植え付けるトリック用語である。
「違法」でなければ「合法」であるという、法律の根本理念を曖昧にして、イメージだけで人を貶める詐術は、大手マスコミの得意技だ。
どうか、本エントリーの読者諸氏は、その詐術に騙されないようご注意頂きたい。
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